昭和30年代後半より40年代にかけて、日本は池田首相の所得倍増論を経て戦後の高度成長期に入った。酒造業界も他産業と同様の近代化、合理化を進めねば生き残れないと云われた状況になり灘、伏見の大手企業も折から普及したテレビの宣伝にのせて、全国市場に進出、大量生産方式、大量販売方式に転換していた。地方酒のシェアは次々と大手酒の餌食になっていく有り様となっていた。私はこの当時「このままでは伝統の酒造りは滅びてしまうのではないか。折角の技能を持った杜氏も宝の持ち腐れとなり、地方酒屋は潰れるかもしれない」との危機感を持った。一方、杜氏や蔵人たちが精魂を傾けて造り上げた清酒の極限ともいわれるこんな美酒があるのに、世間には知られもせず一般の愛好者に試飲されることもなく終わるのは、折角の蔵人たちの努力を闇に葬ることにもなり、何とも残念なことである。
この酒を世に出すことによって、その労に少しでも報いられぬものかと思った。幸い品評会のために造っている吟醸酒が、門外不出となって酒蔵に眠っているではないか、「よし、これを市販してみよう」と思いたった。1年間の諸準備の上、やっと昭和38年(1963)12月「秘蔵酒・西の関」を商標登録して世に出した。4合入りで1,000円の門出であった。当時としては高価格であったが、それでも特級酒の従価税率適用のためさらに酒税が高く、原料その他諸々の高いコストを引き去るとむしろ採算割れの価格であり、採算に目をつぶって発売した大吟醸酒であった。
昭和40年頃の酒造業界の環境は、戦後の高度成長期を迎えて味は二の次、三の次といわれぬまでも大量生産方式が盛んに取り入れられた時代であった。合理化、近代化に業界の目が集中していて吟醸酒無用論が常識のように幅をきかせていた頃であり、こうした風潮に小さな抵抗を試みたかったのも事実だった。 |

大正12年頃の仕込み蔵2階
(現在は酒母場として使用)

現在の酒母場 (写真上の同じ蔵、
同じ位置から撮影)

大正12年頃の仕込み蔵1階

現在の仕込み蔵1階
(写真上の同じ位置) |