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西の関と私

第1回

【創業】

私の家は江戸時代、米作りで生計を立てる農家であった。昔話では戦国時代、大友氏、田原氏に属して武士として働き、後帰農した一族であるようだ。

明治6年(1873)に曽祖父萱島荒吉が当地で酒造りを始め、明治20年代、二代目米三郎が「西の関」と命名した。「西の関」と名付けたのは、西日本の代表酒になりたいとの意気込みと願いをこめたものである。
米三郎は良い酒を造るため渾身の情熱と意欲を注ぎ、伝統の技を持つ国東杜氏神田常五郎氏と共に研鑽努力を重ね、明治40年に初めて開催された第一回全国品評会に、見事一等入賞を果たした。以後、数多くの品評会で全国一流酒に伍して優秀な成績を修めている。

曽祖父荒吉と妻タケは、子供に恵まれず養子を迎えた。
二代目米三郎は幼少より荒吉の養子となり、その後キノと結婚した。しかし、この二人も残念ながら子供に恵まれなかった。そのため、キノの兄の次女(姪)可祝の間に生まれたのが私で(大正11年2月14日生まれ)、萱島家において久しぶり、数十年ぶりに生まれた子供で、それも男の子だったので、大変喜ばれたという。後、兄弟が次々と生まれて、5男1女の長兄ということになった。生を得て70余年、この機会にこれまでの人生を振り返ってみようと思う

荒吉が創業者であるが、名実ともに萱島酒造の土台、基礎を築き酒屋の形態を整えて造り上げたのは二代目米三郎といえる。当初は50石、100石の酒が明治30年代には500石、大正時代には1,000石、大正8~9年頃には2,000石位の醸造をしている。

私の子供の頃は自動車がない時代で、四輪の馬車や車力が主な運搬手段であった。馬方が二人と他に店員が数名で、小売店へ酒を運んでいたのを憶えている。米三郎の妻キノはしっかりとした気性の上、気配りもある人で、馬の両脇に一斗樽をくくりつけるほど力が強かった。その後、馬に代わって荷物運搬用自動車が利用されるようになり、だいぶ便利になった。

営業エリアは一日行程で帰れる距離の区域で、南は杵築、両子、北は国見の熊毛までの範囲であった。

自由経済の時代で焦げ付きや製造中の腐造のため倒産がざらにあった時代で、米三郎は売掛金の焦げ付きで懲りたことがあるからだろうが、手堅い商売をモットーにしていた。取引を掛売りから完全に現金売りにし、常に現金と引替えでなければ酒を渡さなかった。そのため、遠くまで酒を運んで行っても金をくれなければそのまま商品を持って帰らせていた。運んで行った者にとっては、大変であったろうが品質と信用が出来て初めて実行された商売であった。米三郎は素晴らしい経営者であると同時に、地域の発展にも尽くし、旭日地区の小学校の講堂を寄贈する貢献は大きかった。村長、県議もやったが県議会に出席しながら、酒のもろみ温度や麹の出来具合等を電話で連絡したりする程、酒造りに情熱を傾けていた酒造家であった。

当時の造り酒屋で、販売は小売店に直接卸し、また直接の小売もしていた。
小売りは免許制でなく、誰でも酒の小売りが出来た時代である。財産がある人とか、他の食料品と一緒に酒の小売りをする人などが多かった。それが支那事変後、昭和12年を境に免許制となったわけである。

戦時中の統制経済下、酒も配給制になり酒卸し制度が始まり、各郡に酒類配給公団支所が出来た。これが現在の大分県酒類卸(株)の前身である。地方にこうした酒卸問屋が出来たのは戦時中の配給制の名残によるものである。このときの戦時統制は、昭和17年には生産者にも及び転業、廃業が全国で2分の1、製造数量も2分の1にするという思い切った企業整備であった。当時、父の義信は東国東郡の酒造組合長をしており、郡内及び県内の整備事業にかかわっていたため、その心労は想像を絶するほど大変であったと思われる。そのため、当社は終戦まで3年間の休業を余儀なくされた。

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