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西の関と私

第3回

【サイクリング旅行】

中学時代、級長でさせられていたが人前で話したりするのは嫌で、おっくうな方であった。しかし、様々なことに対して好奇心や冒険心は旺盛で友達から、知った船でアメリカに行かないかとの誘いを受けると心が動いた。実現はしなかったが、このようなものには興味もあり、すぐのる方で、行ってみたかったなあと時々思い出す。

中学校へは、家から6~7キロメートルで毎日自転車で通っていた。もちろん当時の道は舗装されてなく、でこぼこの砂利道で乗り心地は悪かったが、ぶっ飛ばせば15分位で学校に着いた。自転車は私にとって身近な乗り物であった。

昭和13年、中学3年の夏休みの前になって仲の良い同級生3人と熊本まで1週間の予定で自転車旅行を計画した。家の者には、はっきり旅行のことを切り出しかねて当日がきた。話せば反対されるかもしれないと感じていた。朝、友達が「よう、行こうや」と張り切って立ち寄ったので、父にやっと計画を話した。所持金は3人とも5円ずつ持っていくことになっていたが、父の「いや、5円では足るまい、10円は持って行け」との言葉にほっとしながらの出発であった。かねて柔道の先生が5万分の1の地図を揃えて貸してくれたので、道筋はよく研究していたが、現在のように道が整備されていなかったため、思いがけぬ苦労が始まった。別府の志高湖の峠を越え、湯布院を経て豊後中村から宝泉寺までを1日で走破したが、坂道が延々とと続き大変な道中であった。宝泉寺の温泉でほこりを落としてほっとした。宿賃は80銭だったと思う。

2日目は阿蘇山までの予定で、小国を通り大観峰に至り自然の雄大さに打たれた。この阿蘇の外輪山の行程は長くて、すべて上り坂で往生した。自転車に乗れる時は少なく、ほとんど押してゆかねばならなかった。その日は坊中(今の阿蘇駅)の前に泊まり、3日目はバスで阿蘇山登りを済ませて、熊本まで走った。テントも持参しており、晴れた時はテントに泊まる計画もしていたのだが、雨の日が多くてあまり使えず旅館に泊まる方が多かった。旅館の宿泊代は1泊で1円20銭~50銭程度ではなかったかと記憶している。5円しか持参していなかったため、高い旅館には泊まれず心細いことになったが途中、菊池のはずれの小学校に泊めてもらったこともある。

菊池神社を経て日田に向かった。峠を越えた大分県側の道は、道なき道で地図には降り続いた雨が濁流となり山道にあふれて、水の流れの中をとにかく下っていった。そのうち道路はやや広くなったが、日没が近づき山の中の道はいよいよ薄暗くなってきた。不安にかられながら行くと、富山の薬売りのような風情の人がひょっこり一緒になった。「どこに行くのか?」と聞かれ、「日田に行く」と答えると「私が道をよく知っているから付いて来なさい」という。

闇夜に光と付いて行くと、「ここからは通れないから自転車を降りてこちらの道を行くよ」と脇道にそれて連れて行くのである。おかしいなと思ったが信用してついていくと、さっきの道路の前方は橋が流されているのが見えた。流失していたのである。ぞっとした。もし、あの人に会わなかったら真っ暗闇の中自転車諸とも3人とも、川の中にまっさかさまに転落し濁流に呑まれていたであろう。九死に一生を得たとはこのことだと心から思った。おかげで無事に日田の宿にたどり着くことが出来たのである。私は特に信仰心がある方ではないが、それ以来、神様はいるのかもしれないという気持ちを未だに持っている。

この旅の途中、一度も家に連絡しなかったため自分たちが無事で戻ってくるまで、両親には大変心配をかけたこととしみじみ思うことがある。しかしあの当時、中学生一週間近くをかけてサイクリング旅行などをする者は稀で、私にとってはこの冒険旅行は、今でも貴重な体験と思っている。 

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