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西の関と私

第4回

【七高と東京大学進学と東京大空襲】

戦争の影響で鹿児島の高校時代は半年短縮となってしまった。しかし、旧制高等学校では全国から友が集まり、寮生活とボート部の3年間は特に思い出が深い。昭和17年(1942)10月に東京帝国大学に入学した。農芸化学科を目指したのは、七高の先輩の勧めなどからであった。当時は企業整備のために酒造業は休業状態であったので、特に家業の勉強をするという意識はなかったが、生物化学に興味を持っていたことと、微生物の利用の勉強は将来、何か役に立つかも知れないとの潜在意識が、どこか頭の片隅にあったのかもしれない。人生は偶然の岐路から始まるとの感が強い。

私の大学時代を通じて、講義に出席できたのは3年間の前半、半分位で残りの半分は勤労動員に費やされて過ごした。いよいよ戦争は激しくなり、昭和18年に学徒動員が行われた。記録映画でよく見られるが、代々木の神宮球場での鉄砲を担いだ行進の後、各県の連隊区で徴兵検査を受けた。文科系の者はそのまま出征していたわけである。その時が最期になった友人もいる。一方、理科系の者は卒業までの3年間、徴兵延期制度があって理科系は技術の勉強をさせておけということで、そのため私は20年9月の卒業まで兵隊には行かなくて済んだわけである。とは言うものの、当時の東京は頻々と空襲に見舞われており、爆弾と焼夷弾の下で暮らしているようなものであった。

空襲の初期の頃は、まだバケツリレーで消化できると判断して逃げなかった人が多かったため、犠牲者が多数出たといわれている。その後の空襲では、多くの人々は命からがら逃げ惑っていた。避難する防空壕といっても、家の近くの地下に作った簡単なもので決して安全な場所ではなかった。

昭和20年3月10日の大空襲により私は本郷の下宿で焼け出され、書籍や持ち物等一切焼いてしまった。幸いにも大学は被災を免れたために、私はそこにしばらく寝泊りして過ごした。空襲の翌日、動員先の深川越中島の陸軍糧秣廠<※1>の研究室が気になり歩いていく途中、東京駅を過ぎた頃から難民のように顔のすすけた多くの人たちが、やかん等を持って地方に疎開するため、続々と駅に向かって歩いて行くのに出会った。深川周辺は滅茶苦茶な焼夷弾攻撃で、あたり一面見渡す限りの焼け野原といった状態であった。隅田川には死体が浮いて、潮の干満ににつれて漂っている有り様。この戦争の無残さと先行きに暗然たる思いであった。それから私は中野の蚕糸試験所の寮に移ったが、そこでも大空襲に遭って周辺焼け野原になり、まもなく長野県上田市へ転属となった。長野は大本営が移転予定のあった地で、大防空地下壕が作られていたそうだ。20年8月20日に私は上田市の高等蚕糸専門学校の研究室で終戦を迎えた。

終戦後1週間位してから一度様子を見るため、郷里の国東へ向かったがあの当時は汽車に乗るのも大変な苦労だった。乗客は復員する軍人を含めて超満員で、列車の屋根に乗ったり乗客の窓から出入りしたり、窓ガラスを割って列車の中に乗り込む者もあった。私は機関車の先端付近に腰掛けられるスペースを発見して、やっと九州への帰途につくことが出来た。しかし機関車は途中で機関区毎に別の機関車に入れ換えられることを知ると共に、その度に乗り換えて腰掛ける場所を探さねばならなかった。また、トンネルの中では機関車の煤煙で真っ黒になりながら、どうにか国東に帰り着いた。我が家の酒蔵はグラマンの銃撃を受けており、またロケット弾2発が蔵の屋根に端に当たったが、幸いに外にそれて水田に大穴を空けていた。傷ついてはいたが、郷里の山河は残っていた。

※1陸軍糧秣廠(りくぐんりょうまつしょう):兵員の食糧を管理する所。

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