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西の関と私

第9回

【当社の吟醸酒市販の動機】

当社が吟醸酒市販にかかわった歴史はずいぶん古いが、昭和4年(1929)以来、昭和51年(1976)に引退するまで48年間務め上げた杜氏中村千代吉氏が、熊本県酒造研究所で野白金一氏という吟醸造りの開発者に薫陶を受けたこともあり、その前からも当社では吟醸酒を手掛けていた。そして地方、中央の吟醸酒競技会ともいえる品評会に毎年挑戦して実績を上げていた。

昭和30年代後半より40年代にかけて、日本は池田首相の所得倍増論を経て戦後の高度成長期に入った。酒造業界も他産業と同様の近代化、合理化を進めねば生き残れないと云われた状況になり灘、伏見の大手企業も折から普及したテレビの宣伝にのせて、全国市場に進出、大量生産方式、大量販売方式に転換していた。地方酒のシェアは次々と大手酒の餌食になっていく有り様となっていた。私はこの当時「このままでは伝統の酒造りは滅びてしまうのではないか。折角の技能を持った杜氏も宝の持ち腐れとなり、地方酒屋は潰れるかもしれない」との危機感を持った。


一方、杜氏や蔵人たちが精魂を傾けて造り上げた清酒の極限ともいわれるこんな美酒があるのに、世間には知られもせず一般の愛好者に試飲されることもなく終わるのは、折角の蔵人たちの努力を闇に葬ることにもなり、何とも残念なことである。

この酒を世に出すことによって、その労に少しでも報いられぬものかと思った。幸い品評会のために造っている吟醸酒が、門外不出となって酒蔵に眠っているではないか、「よし、これを市販してみよう」と思いたった。1年間の諸準備の上、やっと昭和38年(1963)12月「秘蔵酒・西の関」を商標登録して世に出した。4合入りで1,000円の門出であった。当時としては高価格であったが、それでも特級酒の従価税率適用のためさらに酒税が高く、原料その他諸々の高いコストを引き去るとむしろ採算割れの価格であり、採算に目をつぶって発売した大吟醸酒であった。

昭和40年頃の酒造業界の環境は、戦後の高度成長期を迎えて味は二の次、三の次といわれぬまでも大量生産方式が盛んに取り入れられた時代であった。合理化、近代化に業界の目が集中していて吟醸酒無用論が常識のように幅をきかせていた頃であり、こうした風潮に小さな抵抗を試みたかったのも事実だった。

滔々たる時代の流れとなっていた量産と酒質の平準化の波の中で、少しくらいあがいてみてもすぐ消えてしまいそうな小酒屋の行く末を考えると、絶望感の方が先に立つような時代であった。あの伝統の技術や手造りの良さを貫いていける道は無いのか、せめて一石を投ずる手だてはないのかと、思い悩む日々が続いた。しかし波に流されることはどうしても気が進まなかったわけで、この吟醸酒市販の試みにも遠い光を望むような淡い期待を持っていた次第である。

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