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西の関と私

第11回

【秘蔵酒発売後の経過】

こうして売り出された秘蔵酒であったが、初年度640本から始まった。売り上げ本数の伸びは遅々としたものであった。しかし、次第にファンや力強い支援者が増えて、それでも4年目にやっと1,000本を超す次第で、徐々に継続的な商品として育っていった。

昭和46(1971)年10月、大分空港が国東半島に開港した。このことはこの酒の日本への新たな門出を意味していた。夕方の大分空港発で東京や大阪へ帰ったお客様より、時々晩酌の頃電話で注文が来るようになった

昭和48(1973)年、ドイツのラインガウの銘醸酒「シュロスフォルラーツ」のマツシュカ伯爵の長寿の祝いに世界の酒の大利き酒会が開かれて、日本酒としては東の「越の寒梅」と西の「西の関」が推薦された。主に昭和38年からの吟醸酒の市販の実績が買われたものと思われる。

昭和52(1977)年10月、東京で日本酒の地酒の専門問屋として、地酒発掘の情熱を発揮し始めていたある卸問屋との取引が始まり、東京市場のデパートと傘下の小売店へ「西の関」の名前が広まっていった。

昭和52年の秋に「ほんものの日本酒選び」という本が刊行され、西の横綱にランクされて、全く思いもかけぬことが起こった。東京新聞、河北新報、地元大分合同新聞等が紙面大きく割いて報道してくれたことが大きな転機となった。

昭和48年石油ショックに続く低成長時代を経て、段々と輸入が増えてきた世界の酒に対して、日本の酒でも、量より品質を求める消費者の声が高くなり、日本酒の見直しとその評価が求められて、愛酒家達の日本酒に対する探求が広く深くなされるようになって来た。地方で地道に酒を造ってきた酒造家もチャンスに遭遇する時代が来たのである。これが「西の関」が世に出ることになった経過の概略である。

これについては、後日になって、吟醸酒市販の功績を認められ、昭和62(1987)年11月大分合同新聞の文化賞(産業経済部門)を受賞、昭和63(1988)年10月日本醸友会功労賞(清酒製造技術の会)を受賞、平成元(1989)年9月日本酒造組合中央会石川弥八郎賞(日本酒造業界へ貢献)等を受賞した。

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