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西の関と私

第5回

【戦後の再出発】

私は昭和20年(1945)9月、東京大学を卒業した。私のすぐ下の弟で二男の崇信(たかのぶ)は陸士卒で少尉任官して、北満州の守備についていたが終戦直前に四国の高知海岸の守備に帰国していたため、戦死やシベリヤ抑留を幸いに免れた。戦後しばらくの残務処理の後、帰郷して父の仕事をたすけてくれていた。三男の琢也は学徒出陣<※1>から戻って京大法科へ、四男の昭二は海兵から戻って五高より九大へのコースをたどった。五男の銓之助(せんのすけ)や、その下の妹昌子などは中学1年や小学校2年であった。私は縁あって日清製粉へ就職したものの、東京の社会事情、食糧事情は最悪で、仕事らしい仕事もない日々で3年間の後、辞めさせて貰ったが私の人生では唯一の会社勤務となった。

昭和23年暮れに国東に戻って家の手伝いを始めたが、当社の酒造りは昭和17年の企業整備により昭和18年から20年まで、3ヵ年の休養を余儀なくされていた。ようやく昭和21年から酒造りを再開していたが、戦後の食糧不足もピークに達し皇居にも米よこせの暴動が乱入するといった時代であった。酒造用米の配分もごく少量で、わずか原酒で100石(1.8L詰1万本)位の生産で、小さい仕込みでも10本位の仕込みで終わる。蔵人はわずかな人数であり、家族も仕込み作業に加勢したり、びん洗い、瓶詰も家族の者がする状況が当分続いた。酒は配給時代であったために販売の苦労はなかったが、秋祭りの配給酒も出荷出来ないほどの心細さであった。

食糧の足しにと、夏は家族総出で開墾地に甘藷<※2>や小麦を作ったり、ミカンの苗などを植え込んだりしてなれぬ農作業に精を出していた。酒も収入が少ない上に学費など出費もあり、父のやりくりもなかなかなようであった。

こうした中一番大変だったのは、インフレ昂進(こうしん)のため旧円を新円に切り替えが行われたこと、また財産税が課せられたことである。財産税の納付は現金、預金、有価証券などでしなければならなかった。申告時において、戦前の有名会社の株などは価値がほとんど無くなっていた。評価できるものとしては、土地、建物(殆ど使っていない酒蔵)などが主であった。しかも当社は3年間休業していたため、現金収入が無かったのに加えて、新円切り替えで新円はなおさら手に入らない。とにかく納税のために四苦八苦させられた。財産税の課税評価額は当時の額で約70万円位でなかったかと思う。23~24万円の財産税を納付しなければならなかったので、かなりの額の借金をする羽目になった。私や家族にとってはこれが戦後無一文からの再出発であった。

再開後の昭和21年から十数年間は、帳簿などは私や弟が引き継いでやっていた。酒屋のことが大体わかるには3年はかかると父は当時言っていたが、この十数年が酒造り全般を修行した期間となり、結果的に私共にとって創業とも云える時代となった訳である。

これまで家業としてやってきた事業であったが、父の希望もあり昭和29年(1954)4月1日を期して萱島酒造(有)という法人(資本金300万円)に切り替えた。その日は期せずして国東町の6ヵ町村(旭日村、国東町、豊崎村、上国崎村、富来村、来浦町)が合併した日である。経理相談は以前から父と親交のあった国東町出身の大分市福田隆公認会計士事務所にお願いした。

製造復活後10年ようやく好転の兆しがみえはじめた矢先、昭和31年(1956)12月、父義信が満63歳死去して私が後を継ぐことになった。34歳であった。相続財産は当然ながら見るべきものもなく、我が家と農地解放で残された5反の田畑とわずかな山林であった。弟の崇信を専務にして営業関係の雑務を担当して貰い、ずっと引き続いて今日に至っている。酒屋の社長についていえば、製造について理解のあるなしは致命的であると感じていたので、自分は酒造りの技術をもっともっと身につけたいと各地の酒蔵を見学したり、実地の酒造り、麹造りに励んだものである。一方で毎日毎日、卸売店や小売店を回って営業努力を黙々と続けてきた弟の崇信専務の努力があったこそ、製造と営業のコンビがうまく機能したのだと思う。

※1学徒出陣(がくとしゅつじん):第二次大戦中、文科系学生の徴兵猶予が無くなり在学したまま陸会空軍に入隊し戦争にでていったこと

※2甘藷(かんしょ):サツマイモの漢名。

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